昭和五十年 四月十三日 朝の御理解
御理解第二節
先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。
お道の信心は、お徳を受けるための信心と云っても良い。お徳を受ける為の信心、信心をすれば誰でもおかげが受けられる、と云うのですから。
その御神徳を誰でも受けられる信心とは、どういう事かと云うと、只、願う、頼むだけの信心ではなくて、お道の信心は、どこまでも、御神慮に応え奉るという信心です。
お道の信心はね、御神慮に、御神慮を悟らしてもらう、神様の心を分からして貰い、その神様の心に添い奉る生き方が、お道の信心です。だから、信心すれば誰でもお徳が受けられる。だから、お道の信心をしておっても御神慮を悟らず、悟ろうともせず、只、お参りしとります、お願いをしておかげを頂いとるというのでは、やはりお徳は受けられません。
お道の信心は、そこんところを次の御理解三節に、教えておられるように思います。良いですか、今、私が申しましたところをしっかり頂いて聞かんと分からんのです。
金光様の御信心は、誰でもお徳が受けられるという信心です。なら、金光様の信心はどういう信心かというと、御神慮を悟るという事。神様の心を、信心させて貰うて、御神慮を分かり悟らせて貰うて、その御神慮に添い奉るという信心です。
もう、絶対に受けられるです。御神慮を悟り、御神慮に添い奉る信心、生き方になる。それをはっきり教えておられるのがです、私は、金光様の御信心とは、なら、どういう信心かと。それは、御神慮を悟り、御神慮に添い奉る生き方を教えて下さるのが、金光様の御信心であると。
それを、御理解第三節には、はっきりと教えておられるのです。読んでみましょう。
『天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげをしらず、神仏の宮寺氏子の家屋敷、皆、神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼致し前々のめぐり合わせで難を受けおる。この度金光大神を差し向け願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛致す事、氏子あっての神神あっての氏子、上下立つように致す。』と云うのが、その私が申します説明なんです。
いうなら、思い違いも甚だしい、考え違いも甚だしい、自分のものでもないものを自分のものの様に思うたり、天地の中に、それを、御神徳を満ち渡らせられておる。
例えば、私共の住む地球上、これは地球だけの事ではありませんけれども、その地球にです、神様の御恩恵の欠けておるところとは、指一本で押すところもない筈なのに、日々、来る日も来る日もが、神様のおかげで、なればこそ。こうして、神様のおかげを頂いとるにもかかわらず、何日が良いの悪いの、又は、ここの地所が良いの悪いのというような所謂考え違い。
先日から、西郷から毎日参って居られる、塩足さんという方が居られます。大変、御主人おかげを頂いて、息子さんが、立派な息子さんが居ります。近頃、参って来ましたが、その息子さんがもう二十七になられるのですけれども、まあそれを聞かされませんから、どういうものか知れませんけれども、まあ難儀な病気、とこう云っとります。
それで、やっぱり本人も色々気に、心配なもんですから、色々拝み所、お尋ね所にもお参りさせて頂いた。ところが、参られてすぐそこで、あんたん所は古井戸を埋めとろうが、と云わしゃった。はあ、そげん云や埋めとります。そんなら、そこん所に注連縄を張って、月の一日、十五日は必ずお神酒を上げて、そこを通らんごとせねばいけん。注連縄を張りなさいと云われて、もう二年になる。
ところが事実ね、そういう風に云われますと、だからそこに、そういう神様か仏様か知らんけど、あるとするなら、それが信心。
例えば、そこに注連縄を張ったり、お神酒をしたり、そこを踏まんごとすればおかげが頂けるというような信心ではなくて、金光様の御信心は、例えば、そこの古井戸を埋めておろうが、そこが一番通らにゃん。裏へ行くところの大事な所らしいのです。現在は。
それで、私が注連縄を取んなさい、と云う。そして、そこをお詫びさして頂く所はお詫びさして、御礼申し上げる所は御礼申し上げて、そのようにしなさい。
それから、毎日参って見える。もう、そうしとられるもんと思いよった。ところが、十四、五日しましてからでした。もうあそこは、注連縄を取って、もう通りよんなさるのかと、云うたら、それが、あなた取り切らんどります、と云う訳です。
それは思い違い、考え違いから、そういういわば不自然な事、まえは愚にもつかない迷信に囚われてしまっている。けれども、あんたんところに古井戸があろうと云われて、あれが当たっていたので、いわばね、そういう信心もあるのです。やはり。
注連を張ったり、またはそこにお神酒を上げたり、そこを踏まん様に、使わんようにしたり、もう永劫、そこの土地が使われんという事は、天地金乃神の御信心からいうたら、こげなお粗末なことはない。ご無礼なことはないです。それを、使わして頂いて御礼を申し上げるこそ、そうなのです。
だから、そういう事をして、例えばおかげ頂いたとしてもです。ところが、まあだ、実際においてはおかげを受けていないのですけれども、そういう事で、只お願いをしたり、神様の云わしゃる通りの事をすれば、病気が治ると云ったような信心ではなくて、所謂、御神慮を悟ると云う事、神様の御心を知ると云う事。
そこに、初めて注連縄も取り除かれる。そこも有難く通らして頂くという事になる時に、初めておかげが受けられる。それで取っとらんと云うから、兎に角、息子ばいっちょ連れて来なさい、と云うて、息子を連れて見えられましたから、まあその事の色々お話させて頂いて、体の事をお願いしよう。また、そこを、永年使わんでおった所を通らして頂いて、おかげで便利になりました、と。だから、もう信心が雲泥の違いでしょう。
神様か仏様ちゃ、人間が出来ん時に、適わん時に、どうぞお願いしますと云うのが神様と思うたり仏様と思うておる。神仏じゃないのです。
ここに、おしゃっておられる様に、神仏の宮寺氏子の家宅、皆、神の地所なのです。と云う事は、例えば、そういう考え違い、思い違いをわからして貰い、御神慮を悟らして頂いてです、一切が神様の御物であると云うようなところがわからして貰うて、それこそ自由自在にこの天地を使わして頂けるおかげを受けて行くという信心。
御神慮がわかり、悟らなければです、そういうお粗末ご無礼を続けなければならない。お粗末ご無礼を続ける所にです、知らず知らずの内に前々のめぐりで難儀を受けおると、もう難儀の決定版です。
難儀は、どういう所から起きて来るかと、思い違いなんだ、考え違いなんだ。なら、そういう思い違い考え違いという事もです。例えば、日々起きてくる様々な難儀と云ったようなです、事にも、私共が思い違い考え違いをして、私共が只、その難儀の中から助けて下さいどうぞ宜しくでは、御理解第二節で云う、誰でも御神徳が受けられると云う事にはならぬ。先の世まで持ってゆかれ、この世まで残ると云う程しにはならんのです。
御神慮を悟らして貰うて、だから、初めのところはです、願う氏子におかげを授けと仰せられますから、そういう意味においてのおかげは願う氏子におかげを授けて下さるのですけど、次に理解申して聞かせとこうおっしゃる。その理解申して聞かせと云うところが今、一番初めのところに申しました様に、人間の思い違い考え違いを悟らして下さる。諭して下さるのです。そして、そこから神も助かり氏子も立ち行く信心、共に助かってゆく神人共栄の世界というのが、神様の理想のおかげなんです。また、私共もそれを焦点、目的として信心を進めて行かねばならんのです。
今日は十三日会ですが、これは神の願いが成就する日と云われて、合楽ではこの十三日を大変大切に致します。午前中、御用奉仕をさせて貰うて、午後は愈々信心共励の華が咲く訳でございますけど。
神の願いが成就するとは、どういう事かと云うと、私共が御神慮を悟らして貰うて御神慮に添い奉る生き方が出来て、私共が御神徳を受けて、あの世にも持って行かれ、子孫にも残しておける様なおかげを受けるという事が、神様の願いが成就する事である。
そこに、初めて神人共栄のおかげと云う事になる。だから、どうでも、これは根本的にですね、ここのところを一つ分からなければいけません。
お道の信心とは、只、願う、頼むという信心なら、ありきたりの何々様、どこのお伺い所ともあまり変わらん事になる。金光様の信心は、そこが根本的に違うのです。
そこでです、中々、御神慮を悟ると云う事がです。御神慮を悟ろうともしない、御神慮を分かろうともしない。これではいつまで足っても、御神慮が分かるはずもない。わからなければ、また、間違った生き方を続けなければならんのです。
昨日は、みどり会でした。色々とお話を聞きました、皆さんに。中に、高芝のお母さんが発表し取られました。
最近、子供達の上にいろんな問題が次々と起こって来る。その問題が、また見事におかげを頂いて行く。おかげで子供達が愈々金光様の信心を親を通して分かっておる、分かってはおったけれども、これからは本当の金光様のご信心を頂こう。もう、金光様の信心に帰依してしまうというような問題が起こったおかげで、皆が信心が分かって行きよる。子供達が、皆、熱心になって来た。
ところが、またもや子供達の上に問題が起こって来た。そこでです、初めて気が付かせて頂いた様にです、お父さんと話しとりますと。子供達の上に、次々とこういう問題が起きて来るという事は、これは親の私達が分からにゃならん事じゃなかろうかと、話とります、というのです。
もう、そこに、いうならば御神慮を悟ろうという心が起きてきた訳です。そこから、例えば夫婦の者がです、子供達の難儀を通してです。ああ、お父さん、これじゃった。ここんところを神様が分かれと云いござると分かったと、わかって、それにお応え出来る信心が出来た時にです。私は、初めて御神徳の受けられる信心という事になると思うです。
私は、ここのところが今までは分からなかった。神徳は、信心すれば誰でも受けるとか出来る、みてる事がないと教えられておられるけれども、ここの意味があんまりわからなかった。
ところが、金光様のご信心とは、御神慮を悟り御神慮に添い奉る事が、お道の信心だと云う事を、なら、今の御理解三節で分かって頂いた訳なんです。それが、天地金乃神の申す事は、なのです。天地金乃神様の御信心というのはです、今までの思い違い考え違いをふりすてて、そして、その大きな神様の心を分からして頂いて神慮をね、《分》からしてもらうて、その御神慮に添い奉る生き方をするところを、願う氏子におかげを授けながら理解申して、そこんところを分からして呉れ、悟らして呉れ。そこに、初めて神人共栄の道が開けてくるんだ、と。
末々まで繁盛致す事、末々までという事は、お徳を、いわば残しておけるという事。神様も立ち行かれ、私共も立ち行く。神人、いわば合楽の世界がそこにあるわけです。だから、その合楽の世界ということはです、なるほど、現在いつも聞いて頂くように、合楽示現活動が始まるやいなや、その事を繰り返しておりますけれども。
先ずよい信心に導かれた。善導寺と受けた。そして、おかげを受けて有難い勿体ないという、善導寺から勿体島。その有難いと云うその心がです、椛目。心の中に喜びの花が咲いておる。それを常持に持ち込むという事である。常に持ち続ける、だからここまではね、ここまでは何々様でも変わらんように思います。
あゝ、何々様は有難い、勿体ないということなのですから、ここまでは同じ事なのです。だから、常に持ち続けたその喜びをです、その喜びの心を以て、愈々、御神慮を悟らして頂こうとする信心が必要なのです。その喜びの心をもって願うのです。愈々、御神慮を分からせて頂くのです。そこで御神慮、難儀なら難儀を通してです、御神慮を分からせて下さい、と。
高芝さん夫婦は、そこんところを願っておられるのです。そこで、なら御神慮が分かり、そこから開けたところに合楽があるのです。
神も助かって下さり、氏子も立ち行く。もう本当に神と氏子が立ち行けれるような世界がそこにあるのです。
だから、常持ちまでは何様でも良かという感じです。けれども、そこから先が違う、金光様の御信心は根本的に違うです。日柄方位ばかり見て無礼致しと、そういう思い違い考え違いは天地に対してご無礼だと云うてもです、そこを分からせて頂いて、考え違いが、思い違いをお詫びさせて頂いて、御神慮を悟って御神慮に添い奉る生き方がいよいよ出来てくる。そこから、いわば合楽の世界と云う事は、私自身もこれが極楽じゃろうかと。
昨日の、久保山さんの話じゃないけれども、私共、この村内には金持ちも、物持ちもいっぱいあるけれども、アサ子さん、家位幸せな者はこの村には居りますまいと云えれるような、極楽。
だから、その極楽の世界をです、神様もまた感じて下さる。そこから、また御神慮を悟り御神慮に添い奉る、云うなら合楽示現活動に参画させて貰える様なおかげになって、そこの世界を広げてゆくところに合楽の世界がある。
成程、これからは成程、教祖様がです。私は、この辺が妙な事じゃあると思いました。信心すれば誰でも徳が受けられる。金光様も嘘を言うちゃる様な気がする。その証拠には、沢山、金光様の信心をする人はあるけれども、それこそ家繁盛、子孫繁盛、それこそ、あそここそ金光様の信心によってお徳を受けてござるじゃろうと、思われる人が非常に少ないと云う事なんです。
けれどもです、今日のところを分からせて頂いたらです。金光様の信心は、御神慮を悟り御神慮に応え奉る生き方というのが金光様のご信心。そこを、教祖様は信心すればと、おしゃとられる。金光様の信心すればとは、そういう信心をすれば成程、これからはもう間違いなく、お徳が受けられるだろうと思います。
私共、二十何年間の信心を振り返って見てです、訳はわからんなりに、御神慮に添い奉る生き方をして来たなあ、と思うのです。
間違いない、一切が成り行きとして尊ぶどころではない事柄に、その事柄に、御の字を付けて御事柄として頂いて行くという受け方ですから、所謂、本当の金光様の御信心が分かった者の姿勢が出来て居る。そして、今日の合楽があると思うのです。
信心をすれば、誰でも受ける事が出来る。いうなら、金光様の信心とは、今日、私が申しました様な、天地金乃神と申す事は、こういうお方であり、こういう信心なのだから、そういう信心を身に付けて行くならば、成程、神徳を身につける事が出来る。みてると言う事がないというおかげを頂く事が出来るのです。 どうぞ